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●参考資料 遷宮百年記念誌「ゑびす・だいこく・福の神」
平塚貞作氏著より書き出し部を抜粋
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多くの日本人にとって、琴線に心地よい響きのフレーズは、「ゑびす・だいこく・福の神」に相違ない。福の神信仰の本拠は、日本一社として知られる、兵庫県の西宮神社であります。
桐生西宮神社は、西宮本社の直系分社として、明治三十四年十一月二十日分霊勧請されました。御祭神は、蛭子大神(ひるこおおかみ)さまで、鎮祭地は、社叢森厳にして、風光明媚な桐生ケ丘に抱かれた、美和神社の聖地に、相殿神(あいどののかみ)として奉詔遷座されました。
県内有数の古社として知られる、式内社・美和神社の御祭神・大物主命は、別称が大国主命で、江戸時代には、イメージを習合させて、大黒さまとして成立しました。 相殿神とは、美和神社の同格主祭神であり、桐生西宮神社の秋期例祭・ゑびす講は、恵比須・大黒の二神が並祀された、他に類例ない特別祭祀で、福徳財宝の神として、確かな御神徳が期待されております。
各地に、ゑびす神が存在しますが、多くは、御祭神に、事代主命、もしくは大国主命を祀ります。ゑびす神と称する、真の福の神・蛭子大神さまの、御分霊を斉(いつき)奉る神社は、桐生西宮神社が、関東で、一社であります。関東一社の称号を冠した、桐生ゑびす講は、確かな御神徳とともに、関東一の賑わいとして定評されております。
しかし、福の神に期待する多くの善男善女が、御祭神の相違や称号を意識されて、御参りされているのでしょうか。おそらくは、桐生ゑびす講の祭礼情緒と、関東一の神賑わいに、福徳財宝の神としての、確かな御神徳を、実感されていることと思われます。
関東一社の、真の意味は、西宮本社の直系分社として、伝統を温存した、祭祀と神事に加え、福の神としての、確かな御利益に納得いただける、神賑わいが、桐生流の祭礼様式に、構築されております。さらには献幤使(けんぺいし)として、現在も西宮本社より、宮司や神職のご列席を仰いでの、神事の厳修は、本社直系祭儀の挙行であります。また、西宮本社で、厳粛に御祈祷された御神札(おふだ)と、御神影札(おみえふだ・お姿)の直接頒布(はんぷ)こそ、関東一社の冠をいただく、自負からの踏襲にあります。
先人が、敢えて、関東一社と称した背景は、養蚕から販売にいたる、全ての織物関係従事者の、創意工夫や技術向上の奮起を、福の神・ゑびす信仰に直結させて、高級絹織物の生産性向上を直視し、織都桐生の存在誇示と、桐生人特有の、本格好みを先取りした、先人の知恵であります。
桐生織物と福の神・ゑびす信仰は、古くから存在しました。織物生産で産業経済が古くから発達した桐生では、都市機能としての市(いち)が立ち、織物や生産資材はもとより、後背地の農山村部からも多くの人出があり、各種の生活用品が売買されました。特に、恵比須講直前に立つ市を、「ゑびす講前市」と称し、冬物用品を求める群衆で大変な賑わいでした。
この頃のゑびす講は、福徳財宝の招来と、生業繁栄を願う、家々での「ゑびす講」であり、西宮本社の神人(じにん)であった傀儡師(くぐつし)や、御神影札(おみえふだ)を配札したゑびす太夫が説いた、御神徳を地域流に解釈し、養蚕や織技術の向上など、桐生らしさの、福の神信仰となりました。
各地で行われた一般的なエビス講は、一月二十日のゑびす講を、正月エビスや春エビスと呼び、商家のエビス講とか、エビス様が働きに出掛けるので、簡素なエビス講を祝い。秋のゑびす講は、農家のエビス講で、エビス様が稼ぎから帰って来るので、盛大に祝う例が多く、総体的には神頼み的な福の神信仰であります。
桐生周辺の、農山村や養蚕地帯でも、通俗的なゑびす講が行われました。民俗的な注目点は、家族全員の財布と通帳や、子供の貯金箱まで供えての、福徳と財宝の倍増祈願も見られましたが、賃機(ちんばた)稼ぎと関連職種はもとより、農林業から、都市部の商家や諸職のすべてが、織物業との関わりが深く、桐生織物の広範な産地圏は、織物が求めた職種と、育んだ文化が多彩で、経済・文化の影響は濃密に関わり、ゑびす講の日は、御神札と、お姿の御神影札を請けるために、桐生西宮参りが一般に行われました。
桐生地方に、古くから、ゑびす講が定着した要因の一つに、桐生の気象歳時記として特筆できる、「ゑびす講と生活暦(ごよみ)」としての節目が、桐生人の、忍耐の源(みなもと)の一つとして、知られております。
奉公人はもとより、桐生人の多くは、どんなに寒い年でも、足袋と炬燵の使用は、「ゑびす講の日から」許されました。奉公人への「足袋のお仕着せ」も、ゑびす講の日と定着しており、寒さに耐えながらも、生業に励む張り合いとして、『ゑびす講まで』、という目標の存在が、桐生人を奮起させる支えとなっておりました。
他に類例を見ない、特徴的な「桐生のゑびす信仰」は、機業や商家の旦那(主人)衆が、奉公人(従業員)に「職務に精励の結果が福の神」で、職能知識と卓越技術の修得によって、「自らが招くゑびす信仰」に、導きました。生産性を重視した産業経済都市・織都桐生ならではの、福徳財宝は「自らが目指し獲得する」ゑびす信仰が成立しました。
記録された、福の神・ゑびす信仰は、
◇ 明和三年(一七六六)に、絹市の夷講前市(えびすこまえいち)の盛況から、町中警護と、火の用心の必要を、御役人に申し出ております。
◇ 文政八年(一八二五)上州三富豪の筆頭として著名な、織物買継商・佐羽家の家定家訓は、現在の社是社訓・就業規則に相当するもので、全十三条からなり、その第二は、家業繁栄と開運のため、西宮大神宮を信仰しなさい。と明確に定めております。
家訓は代々改定し、天保九年(一八三八)改正では、蛭子様(えびすさま)の日は、夜なべ仕事が免除されております。この頃の、商 家や機業における、奉公人の勤務時間は、朝四時から夜十時迄が通例でした。
◇ 安政四年(一八五七)、買継商・書上家が記録した「恵比寿講記事録」は、取引先や同業者、町内有力者から出入職人、内輪客などを招待して、ゑびす講の大饗宴が開かれている。(中略)商売繁盛としての福の神信仰の盛大は、恵比寿講料理の献立からも伺えます。
◇ 嘉永三年(一八五○)有力機業の食事之定に、恵比須講の日は、フナ・サンマ・イワシ・塩物類。高騰していなければ、ブリ・鮭に変えての、恵比須講の膳と酒が、主人より振舞われました。通常の朝食と、昼のおかづは、漬物だけで、夕食に、煮豆と菜浸しが加わる程度の信じがたい粗食であり、福の神・ゑびす信仰の御利益と、御神徳を実感させております。
◇ 明治三十二年(一八九九)大手機業の工場規則の中に、勤務時間は、通常朝五時より夜九時までが定められているが、恵比須講などの物日(ものび)は、昼迄の勤務で、午後は早終いの待遇改善となりました。
この年の、織物関係従事者は、男性二千五百三十五人、女性三万二千三百十五人、賃機業者五千九百八十七軒、関連業者千二軒で、合計四万八百三十七人と記録されている。しかし、多くの賃機業は、主人家族に加えて、二〜三人の機織りさんを雇う例が一般的であり、全体では、六万人以上が織物業と直接関わり、ハレの日の「ゑびす講」が、織都桐生を支えた一端でもありました。
◇ 明治三十一年、本町三丁目一帯で、六十三戸を全焼する大火から、「禍いを転じて福となす」気概と気運の、「象徴と存在」として、全国三千五百社の「福の神」の「総本宮」として、古くから信仰篤い、摂津国鎮座「日本一社・西宮大神宮」の御分霊を、奉詔勧請となりました。
蛭子大神さまの御分霊料三十円。信認金五十円。勧請諸費用併せて四百七十九円が総費用であるが、多くは、今西祐吉翁と石川只七翁の立替金で挙行されました。遷座に伴う大祭費は、余興の買相撲三十円を含め二百九十六円で、お札・お姿の頒布金と、講金・賽銭収入と寄附金で賄われました。
三十五年は、二十六人の世話人が二円宛、計五十二円の立替金で挙行し、大祭(ゑびす講)総費用三百七十八円で、講金・賽銭・お札・お姿の頒布金、等々ほぼ同額の収入で賄われております。
社殿造営の趣旨は、織都桐生の繁栄と、桐生織物の信用を磐石とする、シンボル的存在感の悲願から挙行されました。
「西宮分社建設願」によれば、桐生町民四百人近い連名で、社殿造営費一千五百円余、継続祭祀費用金壱千余円を整えて実行されました。
本殿・拝殿の材料費七百五十円。大工手間五百五十二円。本殿・拝殿屋根三百四十二円。石工一式二百二十円。左官一式四十五円。建具百円。他総計二千二百六十九円が社殿造営総費用であり、積立金千五百円は社殿の神厳恒久維持費とし、町民二百七十人の寄附金三千二百九十三円五十銭で賄われました。
「桐生西宮大神宮」の分社理由は、いかにも織都桐生らしい。神社仏閣の存在は、意匠(デザイン)の考案と、進歩に多大な影響を与える。西陣織物の意匠優美な特色は、社寺の美術と文化や、賑わいから得られる発想と考案力が大きい。西宮桐生分社は、敢えて壮麗華美を極める社殿を造営し、機業にとっては、斬新な発想で、意匠考案力養成の一助となし、万余を越える商工業関係従事者には、業務に熱心精励の結果で、福徳財宝が得られる精神的存在感の、「教育手段と象徴」とし、その結果、卓越した熟練工の輩出が、桐生機業の躍進と、盛大に不可欠。としております。 |
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